Share

第10話 廊下に立つ透

Author: なつめ
last update publish date: 2026-08-04 09:03:51

 放送室の扉が閉まった音は、校舎の奥で長く反響した。

 そのあとに残ったのは、切れたインターホンから流れる砂嵐のような雑音だけだった。

「透!」

 澪は受話口へ呼びかけた。

 返事はない。

「聞こえる? 返事して。透!」

 雑音の奥で、何かがゆっくりと回転しているような音がした。硬い円盤が一定の速さで擦れ、古い機械の軸が軋んでいる。

 朔はインターホンの下へしゃがみ込み、壁から垂れた配線へ懐中電灯を当てた。

「線は切れてる」

「でも、さっきまで話せた」

「この機械を通していたとは限らない」

 朔は受話器を澪の手から取り、裏側の蓋を外した。内部には錆びた端子しかなく、電流が通っている様子はない。

 それでも、受話口からは透の荒い息が微かに聞こえていた。

『……着いた』

 澪は朔から受話器を奪うように受け取った。

「透? 放送室にいるの?」

『いる』

 声は遠く、ところどころ歪んでいた。

 水の中から話しているように、言葉の輪郭が揺れる。

『機材が残ってる。放送卓も、アンプも……全部』

「扉を開けて。そこから離れて」

『オープンリールがある』

 透は澪の声を聞いていない。

 何かに取り憑かれたように、見えているものを一つずつ口にしている。

『学校に置くような大きさじゃない。業務用だ。リールが二つ。テープが掛かってる』

 澪は鉄の防火シャッターへ掌をつけた。

 冷たい金属の向こうから、美月と悠斗が何かを動かす音が聞こえる。

「透、触らないで。朔が調べるまで待って」

『ラベルがある』

「何て書いてあるの?」

 透の呼吸が止まった。

 受話口の向こうで、紙を指で撫でる小さな音がした。

『七人目』

 廊下の空気が冷えた。

 奈々香が濡れたレインコートの袖を握り、澪の横で首を振る。

「再生しちゃ駄目」

 透へ届くはずのない小声だった。

 それでも、受話口の向こうで誰かが短く笑った。

 透ではない。

 少女の喉から漏れたような、細い音だった。

「触るな」

 朔が受話器へ向かって言った。

 声を張り上げてはいないが、鋭かった。

「透、そのテープから手を離せ。放送室の扉を開けて、廊下へ戻れ」

『音の出所が分かる』

「仕掛けた人間は、お前がそう考えることも分かってる」

『これは、俺の音だ』

「何?」

『識別信号が入ってる』

 透の声が震えた。

『俺が記録した。八年前、ここで』

 澪は額をシャッターへ押しつけた。

「だったら、みんなで聞こう。今は一人で再生しないで」

『一人じゃない』

 透が呟いた。

 澪の指が強張る。

「誰かいるの?」

 返事はなかった。

 代わりに、放送室の奥で金属製のボタンが押し込まれる音がした。

 かちり。

 続いて、重い機械が動き始める。

 二つのリールが回転し、古い磁気テープがヘッドの上を走る。低い駆動音がインターホンを通じて流れ、やがて廊下の天井にあるスピーカーからも同じ音が響き始めた。

「透、止めろ!」

 朔が呼ぶ。

 返事はない。

 ざらついた雨音が、校内放送から流れた。

 八年前の夜の音だった。

 風に揺れる木々。濡れた靴が廊下を踏む音。少女たちの衣擦れ。録音状態はビデオテープより鮮明で、その場の湿度まで蘇るようだった。

『奈々香、ライトを顔に当てるな。何も見えない』

 高校生だった悠斗の声。

『こうした方が怖いじゃん』

 奈々香の笑い声が重なる。

『遊びに来たんじゃないんだから。床、本当に危ないよ』

 美月が注意する。

『分かってるって』

『分かってる人は走らない』

 七人の足音が廊下へ広がった。

 澪は目を閉じた。

 記憶の中にある声よりも、みな幼い。まだ誰も澄花を失っておらず、あの夜が人生を二つへ割るとは知らない。

 若い澪の笑い声も入っている。

『朔、ちゃんと全員映ってる?』

『動くな。数える』

『一、二、三、四、五、六、七。大丈夫、七人いる』

 撮影していた朔の声。

 その数え方を聞いた瞬間、現在の朔の眉が僅かに動いた。

「この会話、覚えてる?」

 澪が訊く。

「いや」

 朔の返答は短かった。

 シャッターの反対側で、美月が鉄板を叩く。

「聞こえてる! 悠斗も私も聞いてる!」

「そっちで解除装置を探せ!」

 朔が叫び返す。

「制御盤はこっち側にある! でも蓋が開かない!」

 美月の声に、金属を叩く音が重なった。

 朔は壁沿いへ懐中電灯を走らせた。防火シャッターから数メートル離れた位置に、小さな灰色の箱が埋め込まれている。

 表面には非常時手動解除と書かれていた。

 蓋は赤錆で固まり、取っ手が動かない。

「奈々香、灯りを持て」

 朔は機材鞄から薄い工具を出した。

 奈々香は震える手で懐中電灯を向ける。

 朔が蓋の隙間へ工具を差し込む間も、校内放送は続いていた。

 録音の中で、七人は階段を上っている。

 足音が一段ずつ反響する。

『ねえ、今、誰か下にいなかった?』

 八年前の澪が言った。

『いないよ』

 澄花の声が答える。

『でも、足音が』

『数えない方がいいよ』

『何を?』

『音』

 澄花は笑っていた。

 けれど、その直後、録音へ低い振動音が混ざった。

 透が説明した識別信号とは違う。もっと不規則で、壁の中を大きな虫が這っているような音だった。

 朔が制御盤の蓋をこじ開ける。

 内部には古い配線と、赤い手動レバーがあった。何本かの線は切れ、端子の周囲が黒く焼けている。

「動かせる?」

 澪が訊く。

「強制解除へ切り替えれば上がる可能性はある。ただし、向こう側の制御盤も同時に固定する必要がある」

 朔はシャッターへ顔を近づけた。

「悠斗! そっちの解除箱を開けられるか!」

「鍵が掛かってる!」

「下から工具を通せ!」

 鉄板の下端で、硬いものが擦れた。

 美月と悠斗が反対側から持ち上げているらしく、シャッターが数ミリだけ浮く。埃が舞い、細い隙間から大型のマイナスドライバーと金属製の棒が差し込まれた。

 奈々香が腰を屈め、工具を引き抜く。

 その間も、八年前の声は続いていた。

 澄花が何かを説明している。

『この袋、勝手に開けたら駄目だからね』

『何が入ってるんだよ』

 悠斗の声。

『返し雛』

『また適当な名前つけて』

『私がつけたんじゃない。持ち主がそう呼んでたの』

『持ち主って誰?』

 答えの代わりに、布袋の中から硬いものがぶつかる音がした。

 こん。

 一度。

 こん、こん。

 内側から叩いているように。

 録音の奈々香が悲鳴を上げ、すぐに笑ってごまかす。悠斗が仕掛けだと騒ぎ、美月が袋を床へ置くよう指示する。

 その会話の奥で、若い透の声がした。

『開けるな』

 現在の澪は受話器を握り直した。

 それまでほとんど話していなかった透が、はっきりと命じている。

『そこには誰もいない』

 言葉の意味が分からなかった。

 袋の中の人形へ向けたのか。

 閉じた教室へ向けたのか。

 それとも、七人のうち誰かへ言ったのか。

「透、今の覚えてる?」

 澪はインターホンへ問いかけた。

 向こうから、現在の透が息を呑む音がした。

『俺が言ったのか』

「あなたの声だった」

『知らない』

 声が掠れる。

『こんなの、覚えてない』

 録音の中で、七人の足音が止まった。

 風も、雨も聞こえなくなる。

 深い静寂のあと、澄花の声が響いた。

『透』

 呼びかけは近かった。

 録音用のマイクへ唇を寄せているように、息の湿りまで聞こえる。

『どうして知ってるの?』

 若い透は答えない。

 代わりに、何かが床を引きずる音が近づいてくる。

 ずる。

 ずる。

 澪の手の中で、インターホンが震えた。

「透、放送室から出て」

 現在の透は答えなかった。

 録音の中の澄花が、突然叫んだ。

『透、後ろ!』

 激しい衝撃音。

 マイクが床へ落ち、何度も転がる。

 奈々香の悲鳴。

 美月が誰かの名を呼ぶ声。

 悠斗の怒鳴り声。

 そして、透の喉から引き裂かれるような息が漏れた。

 通信が切れた。

「透!」

 澪は受話器へ叫んだ。

 砂嵐しか返ってこない。

「返事して! 透!」

 朔が解除盤の配線を工具で固定する。赤いレバーを両手で掴み、力を込めて下へ倒した。

 警告灯が一度だけ赤く点滅した。

 防火シャッターの上部で、古いモーターが唸り始める。

「向こうも同時に解除しろ!」

 朔の声に、美月が応じる。

「悠斗、今!」

 鉄板の反対側で金属音が鳴った。

 シャッターがゆっくりと持ち上がる。

 床へ食い込んでいた下端が数センチ浮き、錆と埃を落としながら上昇していく。

 澪は膝をつき、隙間へ顔を近づけた。

「美月!」

 向こう側にも、美月がしゃがんでいた。額へ汗で髪が貼りつき、救急鞄を背負ったまま制御盤のレバーを押さえている。

 その後ろで悠斗が二枚目のシャッターを工具でこじ上げようとしていた。

「透から返事がない!」

 澪が言う。

「こっちでも聞こえない! でも、放送室の機械はまだ動いてる!」

 確かに、校内放送からリールの回転音が流れていた。

 からから。

 からから。

 一定の速さでテープが送られている。

 人の声はもう入っていない。

 奈々香が突然、澪のコートを掴んだ。

「澪……」

 指先が冷たく震えている。

「何?」

「透……?」

 奈々香は、三人の背後にある廊下を見ていた。

 澪と朔も振り返る。

 非常灯の下に、人が立っていた。

 二年七組へ戻る暗い廊下の途中。

 黒いパーカー。

 痩せた肩。

 首から下げた大型のヘッドフォン。

 相馬透の後ろ姿だった。

 両腕を身体の横へ垂らし、非常灯の緑色の光を浴びている。

「透?」

 澪は立ち上がった。

 一歩、近づこうとする。

 朔がすぐに腕を掴んだ。

「動くな」

「でも、透が」

「放送室は反対だ」

 朔の声が低くなる。

 透が走っていった放送室は、二枚のシャッターの向こう側にある。澪たちの背後へ回り込むには、階段を下り、外へ出て別の入口から戻らなければならない。

 閉じ込められてから、まだ数分しか経っていない。

「透」

 奈々香がもう一度呼んだ。

 廊下に立つ人物の肩が、僅かに揺れた。

 ゆっくりと振り返る。

 首が不自然な角度で傾き、身体より遅れて顔がこちらを向く。

 顔のあるはずの場所に、黒い髪が垂れていた。

 濡れた長い髪。

 その下には、目も鼻も口も見えない。

 透の服を着た何かが、髪の奥で息を吸った。

 ひゅう。

 第七の呼吸と同じ音だった。

 奈々香が声にならない悲鳴を漏らす。

 澪のポケットの中で、赤い組紐が強く脈打った。

 朔は澪を背後へ庇い、小型カメラを人物へ向けた。

 液晶には、誰も映っていなかった。

 非常灯の下には空の廊下しかない。

 だが、肉眼では透の姿をしたものが立っている。

 黒い髪の下から、白い指が一本伸びた。

 指先は、上昇しているシャッターの向こうを示していた。

 その瞬間、鉄板が完全に天井へ収まった。

 激しい金属音。

 澪は反射的に目を閉じた。

 再び廊下を見たとき、透の姿は消えていた。

 濡れた足跡もない。

 非常灯だけが、誰もいない床を照らしている。

「今のは何だったの」

 奈々香が朔の背中へ縋った。

「分からない」

 朔はカメラの映像を確認したまま答える。

 声が、初めて僅かに掠れていた。

 二枚目の防火シャッターも、美月と悠斗の操作で上がり始める。

 金属板の向こうから、放送室へ続く廊下が現れる。

 暗い。

 扉は見えない。

 ただ、床の奥から赤い録音表示灯が点滅している。

「透!」

 澪が走り出そうとした。

 放送室の方角で、何かが床へ倒れた。

 人間の身体ほど重いものが、机へぶつかり、そのまま崩れ落ちる音。

 どん。

 続いて、椅子が倒れる。

 誰かの手から落ちたらしい録音機が、床を滑る音がした。

「透!」

 今度は全員が走り出した。

 校内放送からは、声が消えている。

 二つのリールが回る音だけが、誰もいない廊下を満たしていた。

 からから。

 からから。

 テープの終わりが近づくにつれ、その回転音は少しずつ速くなっていった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • この物語を最後まで読んではいけない ――七つの呪地と八人目の犯人――   第24話 水の中に立つ女

     黒い水は、奈々香の膝を越えていた。「早く! もう腰まで来る!」 四番目の個室の内側から、奈々香が扉を叩く。 狭い木板が衝撃を受け、鈍い音を繰り返した。 ばたん。 ばたん。 その合間にも、水の流れる音が大きくなる。 ごぼ、ごぼ、と水洗タンクの奥で空気が泡立ち、黒い液体が床へ溢れている。 澪は扉へ両手をついた。「奈々香、もう少しだけ待って!」「無理! 冷たい! 足が動かない!」 奈々香の声は泣き崩れていた。 先ほどまでは足首ほどだったはずの水位が、数十秒で腰近くまで上がっている。 澪は床を見た。 個室の外は乾いている。 扉の下には数センチの隙間があるのに、黒い水は一滴も漏れてこない。「おかしい」 美月も同じ場所を見ていた。「これだけ溜まれば、下から流れ出るはず」 古い女子トイレには排水口がある。 しかも、増設された四番目の個室の床にも、小さな排水穴が見えていた。 完全に塞がれていたとしても、腰まで水を溜めるには相当な量が必要になる。 この狭い空間に、その水がどこから供給されているのか。「朔!」 悠斗が叫ぶ。「錠はまだか!」「外から外す」 朔は電磁錠を諦め、個室の側壁へ懐中電灯を当てていた。 増設された木板の継ぎ目。 外側から古く見せるため、表面には汚し塗装が施されている。 しかし、板そのものは新しい。 朔は工具の先端を継ぎ目へ差し込んだ。「悠斗、ここを押さえろ」 二人で板をこじる。 最初はびくともしない。 悠斗が肩を押しつけ、朔が工具をさらに深く差し込む。 みし。 木材が裂ける。 内側で奈々香が悲鳴を上げた。「何か、いる!」 澪の背中が凍る。「何が?」「鏡に……後ろに……澄花が!」「鏡を見ないで!」 美月が叫ぶ。「正面の扉だけ見て! 私たちの声を聞いて!」「無理! 耳元で喋ってる!」「何て?」 奈々香の返事は、水を蹴る音に掻き消された。 ばしゃん。 ばしゃん。「腰まで来た! お願い、開けて!」 八年前。 理科準備室の扉を叩く声が、澪の耳の奥で重なった。『澪ちゃん、開けて!』 掌の古傷が疼く。 あのときは逃げた。 煙。 火災警報。 男の声。『もう助からない』 そして、自分は扉を離れた。「今度は絶対に置いていかない」 澪は呟いた。「何?」 美

  • この物語を最後まで読んではいけない ――七つの呪地と八人目の犯人――   第23話 四番目の個室

     三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……

  • この物語を最後まで読んではいけない ――七つの呪地と八人目の犯人――   第22話 階段の下の少女

    「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗

  • この物語を最後まで読んではいけない ――七つの呪地と八人目の犯人――   第21話 十三段目

     少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。 暗闇は一瞬だった。 それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。 こつ。 硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。 続いて蛍光灯が白く明滅した。 十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。「……何、あれ」 奈々香が美月の袖を握る。 誰も答えなかった。 澪は階段を見上げた。 一階から踊り場まで、十二段。 八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。 その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。 十三段目。 しかも、その先に廊下が続いている。 三階へ上がる階段ではない。 踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。 薄暗い窓。 左右へ並ぶ教室の扉。 天井から垂れる蛍光灯。 突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。「四階……?」 美月が呟く。「ない」 悠斗が即座に否定した。 声がひどく乾いている。「この校舎は三階建てだ」「図面にも?」 澪が訊く。「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」 朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。「全員、その場から動くな」 液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。 今度は、カメラにも存在していた。 朔は角度を変えた。 正面から。 壁際から。 床近くから。 どの角度でも、十三段目はある。 突然、照明が消えた。「動かないで!」 美月の声。 数秒後、明かりが戻る。 十三段目は消えていた。 その先の四階もない。 十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。 奈々香が息を呑む。「今、なかった」「ああ」 朔はカメラを確認する。「映像からも消えてる」 また照明が瞬いた。 一度暗くなる。 白い光が戻る。 十三段目。 四階。 存在する。 照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。 澪のスマートフォンが震えた。 続いて四人の端末も同時に鳴る。 七つの学校章。 赤く塗られているのは三つ。 七人目の出席。 校歌。 姿見。 その下へ新しい文章が表示された。 十三段目に

  • この物語を最後まで読んではいけない ――七つの呪地と八人目の犯人――   第20話 先に振り返った澄花

     東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。 どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。 赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。 階段へ行くな。 死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。「行かない」 澪が言った。 自分でも驚くほど強い声だった。 悠斗が東棟へ続く扉を見た。「でも、今の音を確認しないと――」「透が行くなって言った」「鏡に映ったものを信用するのか?」「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」 美月も澪の隣へ立った。「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」 奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。 朔だけは非常ベルの周期を数えていた。 やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。「舞踊室の映像を見る」 悠斗が苛立ったように振り返った。「今?」「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」 その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。 中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。 朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。 五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。 一往復目。 五人。 二往復目。 五人。 澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。 だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。「違う」 澪が画面へ顔を近づけた。「ここ。悠斗が遅れたはず」「遅れてないな」 美月も確認する。 三往復目。 現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。 映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。「私、止まってたよね」 奈々香が掠れた声を出した。「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」「見た」 澪が答える。 美月も頷いた。 四往復目。 澪の呼吸が浅くなる。 このとき、鏡の中には六人いた。 五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。 右手首には赤い組紐。 けれど、小型カメラの映像には五人しか

  • この物語を最後まで読んではいけない ――七つの呪地と八人目の犯人――   第19話 一人遅れる鏡

     西棟一階へ近づくにつれ、雨音が遠くなった。 代わりに、五人の足音だけが長い廊下へ乾いて響く。 東棟よりも荒廃が進んでいるらしく、天井には幾つもの穴が開き、壁紙は湿気を吸って垂れ下がっていた。窓硝子の半分は割れ、黒い板で塞がれている。 それでも、突き当たりにある両開きの扉だけは、不自然なほど形を保っていた。 曇った金属板へ、かすれた文字が残っている。 舞踊室。「ここ……」 奈々香が足を止めた。「覚えてる」 声は小さい。 左耳には美月が当てた薄いガーゼが残っていた。出血は止まっているが、何度も耳へ指を伸ばしかけては、途中で思い直して腕を下ろしている。「八年前に来たよね」「来た」 悠斗が答えた。 迷いのない声だった。「ここの鏡が七不思議の一つだった」 朔は扉の前でしゃがみ、下部へ懐中電灯を向けた。 細い隙間から、埃の積もった床が見える。 糸や配線はない。「どんな噂だった?」 美月が悠斗へ尋ねる。 悠斗は扉の取っ手へ手を掛けながら言った。「午前零時を過ぎて、鏡の前を全員で歩く」 低い軋みとともに扉が開く。「最後の一人だけ、鏡の中に残される」 舞踊室の暗闇が現れた。「残った奴は、翌朝までに消える」 澪の背中を冷たいものが走った。 部屋は細長かった。 奥行きのある長方形で、床には古い木板が敷かれている。壁際には朽ちた手摺が残り、その上を白い黴が這っていた。 そして、左側の壁一面。 端から端まで、巨大な鏡で覆われている。 幾つもの鏡板を並べて作られたものだった。 表面はところどころ黒く曇り、細かなひびも入っている。それでも五人の姿を映すには十分だった。 澪。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 五人。 鏡の中にも五人。 赤い組紐の入った袋が、澪のポケットの中で僅かに冷たくなった。「当時は何も起きなかった」 悠斗が部屋へ入りながら言った。「澄花がふざけて隠れただけだった」 澪は顔を上げた。「隠れた?」「ああ」「ここで?」「そうだ」 悠斗は当然のことのように答える。「七人で鏡の前を歩いて、最後に数えたら六人しかいなかった。奈々香が泣いて、美月が怒って。あとで澄花が裏から出てきた」「裏って、どこ」「カーテンの向こうか何かだっただろ」 澪は舞踊室を見回した。 壁際にカーテンはない

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status