LOGIN放送室の扉が閉まった音は、校舎の奥で長く反響した。
そのあとに残ったのは、切れたインターホンから流れる砂嵐のような雑音だけだった。
「透!」
澪は受話口へ呼びかけた。
返事はない。
「聞こえる? 返事して。透!」
雑音の奥で、何かがゆっくりと回転しているような音がした。硬い円盤が一定の速さで擦れ、古い機械の軸が軋んでいる。
朔はインターホンの下へしゃがみ込み、壁から垂れた配線へ懐中電灯を当てた。
「線は切れてる」
「でも、さっきまで話せた」
「この機械を通していたとは限らない」
朔は受話器を澪の手から取り、裏側の蓋を外した。内部には錆びた端子しかなく、電流が通っている様子はない。
それでも、受話口からは透の荒い息が微かに聞こえていた。
『……着いた』
澪は朔から受話器を奪うように受け取った。
「透? 放送室にいるの?」
『いる』
声は遠く、ところどころ歪んでいた。
水の中から話しているように、言葉の輪郭が揺れる。
『機材が残ってる。放送卓も、アンプも……全部』
「扉を開けて。そこから離れて」
『オープンリールがある』
透は澪の声を聞いていない。
何かに取り憑かれたように、見えているものを一つずつ口にしている。
『学校に置くような大きさじゃない。業務用だ。リールが二つ。テープが掛かってる』
澪は鉄の防火シャッターへ掌をつけた。
冷たい金属の向こうから、美月と悠斗が何かを動かす音が聞こえる。
「透、触らないで。朔が調べるまで待って」
『ラベルがある』
「何て書いてあるの?」
透の呼吸が止まった。
受話口の向こうで、紙を指で撫でる小さな音がした。
『七人目』
廊下の空気が冷えた。
奈々香が濡れたレインコートの袖を握り、澪の横で首を振る。
「再生しちゃ駄目」
透へ届くはずのない小声だった。
それでも、受話口の向こうで誰かが短く笑った。
透ではない。
少女の喉から漏れたような、細い音だった。
「触るな」
朔が受話器へ向かって言った。
声を張り上げてはいないが、鋭かった。
「透、そのテープから手を離せ。放送室の扉を開けて、廊下へ戻れ」
『音の出所が分かる』
「仕掛けた人間は、お前がそう考えることも分かってる」
『これは、俺の音だ』
「何?」
『識別信号が入ってる』
透の声が震えた。
『俺が記録した。八年前、ここで』
澪は額をシャッターへ押しつけた。
「だったら、みんなで聞こう。今は一人で再生しないで」
『一人じゃない』
透が呟いた。
澪の指が強張る。
「誰かいるの?」
返事はなかった。
代わりに、放送室の奥で金属製のボタンが押し込まれる音がした。
かちり。
続いて、重い機械が動き始める。
二つのリールが回転し、古い磁気テープがヘッドの上を走る。低い駆動音がインターホンを通じて流れ、やがて廊下の天井にあるスピーカーからも同じ音が響き始めた。
「透、止めろ!」
朔が呼ぶ。
返事はない。
ざらついた雨音が、校内放送から流れた。
八年前の夜の音だった。
風に揺れる木々。濡れた靴が廊下を踏む音。少女たちの衣擦れ。録音状態はビデオテープより鮮明で、その場の湿度まで蘇るようだった。
『奈々香、ライトを顔に当てるな。何も見えない』
高校生だった悠斗の声。
『こうした方が怖いじゃん』
奈々香の笑い声が重なる。
『遊びに来たんじゃないんだから。床、本当に危ないよ』
美月が注意する。
『分かってるって』
『分かってる人は走らない』
七人の足音が廊下へ広がった。
澪は目を閉じた。
記憶の中にある声よりも、みな幼い。まだ誰も澄花を失っておらず、あの夜が人生を二つへ割るとは知らない。
若い澪の笑い声も入っている。
『朔、ちゃんと全員映ってる?』
『動くな。数える』
『一、二、三、四、五、六、七。大丈夫、七人いる』
撮影していた朔の声。
その数え方を聞いた瞬間、現在の朔の眉が僅かに動いた。
「この会話、覚えてる?」
澪が訊く。
「いや」
朔の返答は短かった。
シャッターの反対側で、美月が鉄板を叩く。
「聞こえてる! 悠斗も私も聞いてる!」
「そっちで解除装置を探せ!」
朔が叫び返す。
「制御盤はこっち側にある! でも蓋が開かない!」
美月の声に、金属を叩く音が重なった。
朔は壁沿いへ懐中電灯を走らせた。防火シャッターから数メートル離れた位置に、小さな灰色の箱が埋め込まれている。
表面には非常時手動解除と書かれていた。
蓋は赤錆で固まり、取っ手が動かない。
「奈々香、灯りを持て」
朔は機材鞄から薄い工具を出した。
奈々香は震える手で懐中電灯を向ける。
朔が蓋の隙間へ工具を差し込む間も、校内放送は続いていた。
録音の中で、七人は階段を上っている。
足音が一段ずつ反響する。
『ねえ、今、誰か下にいなかった?』
八年前の澪が言った。
『いないよ』
澄花の声が答える。
『でも、足音が』
『数えない方がいいよ』
『何を?』
『音』
澄花は笑っていた。
けれど、その直後、録音へ低い振動音が混ざった。
透が説明した識別信号とは違う。もっと不規則で、壁の中を大きな虫が這っているような音だった。
朔が制御盤の蓋をこじ開ける。
内部には古い配線と、赤い手動レバーがあった。何本かの線は切れ、端子の周囲が黒く焼けている。
「動かせる?」
澪が訊く。
「強制解除へ切り替えれば上がる可能性はある。ただし、向こう側の制御盤も同時に固定する必要がある」
朔はシャッターへ顔を近づけた。
「悠斗! そっちの解除箱を開けられるか!」
「鍵が掛かってる!」
「下から工具を通せ!」
鉄板の下端で、硬いものが擦れた。
美月と悠斗が反対側から持ち上げているらしく、シャッターが数ミリだけ浮く。埃が舞い、細い隙間から大型のマイナスドライバーと金属製の棒が差し込まれた。
奈々香が腰を屈め、工具を引き抜く。
その間も、八年前の声は続いていた。
澄花が何かを説明している。
『この袋、勝手に開けたら駄目だからね』
『何が入ってるんだよ』
悠斗の声。
『返し雛』
『また適当な名前つけて』
『私がつけたんじゃない。持ち主がそう呼んでたの』
『持ち主って誰?』
答えの代わりに、布袋の中から硬いものがぶつかる音がした。
こん。
一度。
こん、こん。
内側から叩いているように。
録音の奈々香が悲鳴を上げ、すぐに笑ってごまかす。悠斗が仕掛けだと騒ぎ、美月が袋を床へ置くよう指示する。
その会話の奥で、若い透の声がした。
『開けるな』
現在の澪は受話器を握り直した。
それまでほとんど話していなかった透が、はっきりと命じている。
『そこには誰もいない』
言葉の意味が分からなかった。
袋の中の人形へ向けたのか。
閉じた教室へ向けたのか。
それとも、七人のうち誰かへ言ったのか。
「透、今の覚えてる?」
澪はインターホンへ問いかけた。
向こうから、現在の透が息を呑む音がした。
『俺が言ったのか』
「あなたの声だった」
『知らない』
声が掠れる。
『こんなの、覚えてない』
録音の中で、七人の足音が止まった。
風も、雨も聞こえなくなる。
深い静寂のあと、澄花の声が響いた。
『透』
呼びかけは近かった。
録音用のマイクへ唇を寄せているように、息の湿りまで聞こえる。
『どうして知ってるの?』
若い透は答えない。
代わりに、何かが床を引きずる音が近づいてくる。
ずる。
ずる。
澪の手の中で、インターホンが震えた。
「透、放送室から出て」
現在の透は答えなかった。
録音の中の澄花が、突然叫んだ。
『透、後ろ!』
激しい衝撃音。
マイクが床へ落ち、何度も転がる。
奈々香の悲鳴。
美月が誰かの名を呼ぶ声。
悠斗の怒鳴り声。
そして、透の喉から引き裂かれるような息が漏れた。
通信が切れた。
「透!」
澪は受話器へ叫んだ。
砂嵐しか返ってこない。
「返事して! 透!」
朔が解除盤の配線を工具で固定する。赤いレバーを両手で掴み、力を込めて下へ倒した。
警告灯が一度だけ赤く点滅した。
防火シャッターの上部で、古いモーターが唸り始める。
「向こうも同時に解除しろ!」
朔の声に、美月が応じる。
「悠斗、今!」
鉄板の反対側で金属音が鳴った。
シャッターがゆっくりと持ち上がる。
床へ食い込んでいた下端が数センチ浮き、錆と埃を落としながら上昇していく。
澪は膝をつき、隙間へ顔を近づけた。
「美月!」
向こう側にも、美月がしゃがんでいた。額へ汗で髪が貼りつき、救急鞄を背負ったまま制御盤のレバーを押さえている。
その後ろで悠斗が二枚目のシャッターを工具でこじ上げようとしていた。
「透から返事がない!」
澪が言う。
「こっちでも聞こえない! でも、放送室の機械はまだ動いてる!」
確かに、校内放送からリールの回転音が流れていた。
からから。
からから。
一定の速さでテープが送られている。
人の声はもう入っていない。
奈々香が突然、澪のコートを掴んだ。
「澪……」
指先が冷たく震えている。
「何?」
「透……?」
奈々香は、三人の背後にある廊下を見ていた。
澪と朔も振り返る。
非常灯の下に、人が立っていた。
二年七組へ戻る暗い廊下の途中。
黒いパーカー。
痩せた肩。
首から下げた大型のヘッドフォン。
相馬透の後ろ姿だった。
両腕を身体の横へ垂らし、非常灯の緑色の光を浴びている。
「透?」
澪は立ち上がった。
一歩、近づこうとする。
朔がすぐに腕を掴んだ。
「動くな」
「でも、透が」
「放送室は反対だ」
朔の声が低くなる。
透が走っていった放送室は、二枚のシャッターの向こう側にある。澪たちの背後へ回り込むには、階段を下り、外へ出て別の入口から戻らなければならない。
閉じ込められてから、まだ数分しか経っていない。
「透」
奈々香がもう一度呼んだ。
廊下に立つ人物の肩が、僅かに揺れた。
ゆっくりと振り返る。
首が不自然な角度で傾き、身体より遅れて顔がこちらを向く。
顔のあるはずの場所に、黒い髪が垂れていた。
濡れた長い髪。
その下には、目も鼻も口も見えない。
透の服を着た何かが、髪の奥で息を吸った。
ひゅう。
第七の呼吸と同じ音だった。
奈々香が声にならない悲鳴を漏らす。
澪のポケットの中で、赤い組紐が強く脈打った。
朔は澪を背後へ庇い、小型カメラを人物へ向けた。
液晶には、誰も映っていなかった。
非常灯の下には空の廊下しかない。
だが、肉眼では透の姿をしたものが立っている。
黒い髪の下から、白い指が一本伸びた。
指先は、上昇しているシャッターの向こうを示していた。
その瞬間、鉄板が完全に天井へ収まった。
激しい金属音。
澪は反射的に目を閉じた。
再び廊下を見たとき、透の姿は消えていた。
濡れた足跡もない。
非常灯だけが、誰もいない床を照らしている。
「今のは何だったの」
奈々香が朔の背中へ縋った。
「分からない」
朔はカメラの映像を確認したまま答える。
声が、初めて僅かに掠れていた。
二枚目の防火シャッターも、美月と悠斗の操作で上がり始める。
金属板の向こうから、放送室へ続く廊下が現れる。
暗い。
扉は見えない。
ただ、床の奥から赤い録音表示灯が点滅している。
「透!」
澪が走り出そうとした。
放送室の方角で、何かが床へ倒れた。
人間の身体ほど重いものが、机へぶつかり、そのまま崩れ落ちる音。
どん。
続いて、椅子が倒れる。
誰かの手から落ちたらしい録音機が、床を滑る音がした。
「透!」
今度は全員が走り出した。
校内放送からは、声が消えている。
二つのリールが回る音だけが、誰もいない廊下を満たしていた。
からから。
からから。
テープの終わりが近づくにつれ、その回転音は少しずつ速くなっていった。
黒い水は、奈々香の膝を越えていた。「早く! もう腰まで来る!」 四番目の個室の内側から、奈々香が扉を叩く。 狭い木板が衝撃を受け、鈍い音を繰り返した。 ばたん。 ばたん。 その合間にも、水の流れる音が大きくなる。 ごぼ、ごぼ、と水洗タンクの奥で空気が泡立ち、黒い液体が床へ溢れている。 澪は扉へ両手をついた。「奈々香、もう少しだけ待って!」「無理! 冷たい! 足が動かない!」 奈々香の声は泣き崩れていた。 先ほどまでは足首ほどだったはずの水位が、数十秒で腰近くまで上がっている。 澪は床を見た。 個室の外は乾いている。 扉の下には数センチの隙間があるのに、黒い水は一滴も漏れてこない。「おかしい」 美月も同じ場所を見ていた。「これだけ溜まれば、下から流れ出るはず」 古い女子トイレには排水口がある。 しかも、増設された四番目の個室の床にも、小さな排水穴が見えていた。 完全に塞がれていたとしても、腰まで水を溜めるには相当な量が必要になる。 この狭い空間に、その水がどこから供給されているのか。「朔!」 悠斗が叫ぶ。「錠はまだか!」「外から外す」 朔は電磁錠を諦め、個室の側壁へ懐中電灯を当てていた。 増設された木板の継ぎ目。 外側から古く見せるため、表面には汚し塗装が施されている。 しかし、板そのものは新しい。 朔は工具の先端を継ぎ目へ差し込んだ。「悠斗、ここを押さえろ」 二人で板をこじる。 最初はびくともしない。 悠斗が肩を押しつけ、朔が工具をさらに深く差し込む。 みし。 木材が裂ける。 内側で奈々香が悲鳴を上げた。「何か、いる!」 澪の背中が凍る。「何が?」「鏡に……後ろに……澄花が!」「鏡を見ないで!」 美月が叫ぶ。「正面の扉だけ見て! 私たちの声を聞いて!」「無理! 耳元で喋ってる!」「何て?」 奈々香の返事は、水を蹴る音に掻き消された。 ばしゃん。 ばしゃん。「腰まで来た! お願い、開けて!」 八年前。 理科準備室の扉を叩く声が、澪の耳の奥で重なった。『澪ちゃん、開けて!』 掌の古傷が疼く。 あのときは逃げた。 煙。 火災警報。 男の声。『もう助からない』 そして、自分は扉を離れた。「今度は絶対に置いていかない」 澪は呟いた。「何?」 美
三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……
「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗
少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。 暗闇は一瞬だった。 それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。 こつ。 硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。 続いて蛍光灯が白く明滅した。 十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。「……何、あれ」 奈々香が美月の袖を握る。 誰も答えなかった。 澪は階段を見上げた。 一階から踊り場まで、十二段。 八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。 その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。 十三段目。 しかも、その先に廊下が続いている。 三階へ上がる階段ではない。 踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。 薄暗い窓。 左右へ並ぶ教室の扉。 天井から垂れる蛍光灯。 突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。「四階……?」 美月が呟く。「ない」 悠斗が即座に否定した。 声がひどく乾いている。「この校舎は三階建てだ」「図面にも?」 澪が訊く。「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」 朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。「全員、その場から動くな」 液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。 今度は、カメラにも存在していた。 朔は角度を変えた。 正面から。 壁際から。 床近くから。 どの角度でも、十三段目はある。 突然、照明が消えた。「動かないで!」 美月の声。 数秒後、明かりが戻る。 十三段目は消えていた。 その先の四階もない。 十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。 奈々香が息を呑む。「今、なかった」「ああ」 朔はカメラを確認する。「映像からも消えてる」 また照明が瞬いた。 一度暗くなる。 白い光が戻る。 十三段目。 四階。 存在する。 照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。 澪のスマートフォンが震えた。 続いて四人の端末も同時に鳴る。 七つの学校章。 赤く塗られているのは三つ。 七人目の出席。 校歌。 姿見。 その下へ新しい文章が表示された。 十三段目に
東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。 どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。 赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。 階段へ行くな。 死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。「行かない」 澪が言った。 自分でも驚くほど強い声だった。 悠斗が東棟へ続く扉を見た。「でも、今の音を確認しないと――」「透が行くなって言った」「鏡に映ったものを信用するのか?」「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」 美月も澪の隣へ立った。「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」 奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。 朔だけは非常ベルの周期を数えていた。 やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。「舞踊室の映像を見る」 悠斗が苛立ったように振り返った。「今?」「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」 その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。 中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。 朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。 五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。 一往復目。 五人。 二往復目。 五人。 澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。 だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。「違う」 澪が画面へ顔を近づけた。「ここ。悠斗が遅れたはず」「遅れてないな」 美月も確認する。 三往復目。 現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。 映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。「私、止まってたよね」 奈々香が掠れた声を出した。「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」「見た」 澪が答える。 美月も頷いた。 四往復目。 澪の呼吸が浅くなる。 このとき、鏡の中には六人いた。 五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。 右手首には赤い組紐。 けれど、小型カメラの映像には五人しか
西棟一階へ近づくにつれ、雨音が遠くなった。 代わりに、五人の足音だけが長い廊下へ乾いて響く。 東棟よりも荒廃が進んでいるらしく、天井には幾つもの穴が開き、壁紙は湿気を吸って垂れ下がっていた。窓硝子の半分は割れ、黒い板で塞がれている。 それでも、突き当たりにある両開きの扉だけは、不自然なほど形を保っていた。 曇った金属板へ、かすれた文字が残っている。 舞踊室。「ここ……」 奈々香が足を止めた。「覚えてる」 声は小さい。 左耳には美月が当てた薄いガーゼが残っていた。出血は止まっているが、何度も耳へ指を伸ばしかけては、途中で思い直して腕を下ろしている。「八年前に来たよね」「来た」 悠斗が答えた。 迷いのない声だった。「ここの鏡が七不思議の一つだった」 朔は扉の前でしゃがみ、下部へ懐中電灯を向けた。 細い隙間から、埃の積もった床が見える。 糸や配線はない。「どんな噂だった?」 美月が悠斗へ尋ねる。 悠斗は扉の取っ手へ手を掛けながら言った。「午前零時を過ぎて、鏡の前を全員で歩く」 低い軋みとともに扉が開く。「最後の一人だけ、鏡の中に残される」 舞踊室の暗闇が現れた。「残った奴は、翌朝までに消える」 澪の背中を冷たいものが走った。 部屋は細長かった。 奥行きのある長方形で、床には古い木板が敷かれている。壁際には朽ちた手摺が残り、その上を白い黴が這っていた。 そして、左側の壁一面。 端から端まで、巨大な鏡で覆われている。 幾つもの鏡板を並べて作られたものだった。 表面はところどころ黒く曇り、細かなひびも入っている。それでも五人の姿を映すには十分だった。 澪。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 五人。 鏡の中にも五人。 赤い組紐の入った袋が、澪のポケットの中で僅かに冷たくなった。「当時は何も起きなかった」 悠斗が部屋へ入りながら言った。「澄花がふざけて隠れただけだった」 澪は顔を上げた。「隠れた?」「ああ」「ここで?」「そうだ」 悠斗は当然のことのように答える。「七人で鏡の前を歩いて、最後に数えたら六人しかいなかった。奈々香が泣いて、美月が怒って。あとで澄花が裏から出てきた」「裏って、どこ」「カーテンの向こうか何かだっただろ」 澪は舞踊室を見回した。 壁際にカーテンはない